キリスト教―ってなに?

Cross of Christ

キリスト教は神様、神の子イエス・キリストと神の御言葉である聖書により成り立ち、クリスチャンとは聖書を信じイエス・キリストの教えに従って生きる人の事です。この生き方はこの地で平安と満たしを与え、天の家に入るために備えてくれます。

父なる神

聖書はいつも、いつまでもいるたった一つの神様がいると教えています。神様は全てを知っていて、その知恵と知識は限りありません。聖書には箴言15:3にこう記してあります。「主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている。」神様はどこにでも存在していて、世界中のすべての人に同時に完全に意識を集中することが出来ます。いつでもどこでも神様に祈ることが出来るのです。神様は私たちの祈りを聞いて、最善を知っている神様は祈りに応えてくれます。神様は一つですが、父なる神、御子なる神、聖霊なる神の三つの位格により表されます。三つはそれぞれ異なりながら、一つの神として調和し共に働かれます。

人の創造と堕落

神様はこの世界とその中にあるすべてを造られました。5日で太陽、月、星々、地球、水、鳥や魚。6日目に神様は地上の全ての動物を造り、そして神様は人をその似姿に造られました。人は神様の創造物の冠であり、神様の愛の現れなのです。神様は最初の人、アダムを純粋で罪のないものとして造られました。神様は人に自身の選択で仕えて欲しかったのです。神様はアダムとその妻イブに一つの単純な戒めを与えましたが、彼らはそれに従いませんでした。罪により彼らは神様から切り離され、彼らの不従順により全ての人は罪と死の呪いの下に堕ちました。神様だけが人を贖う事が出来る方です。その愛の故に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 」(ヨハネによる福音書 3:16)

御子なる神

全文を読む: キリスト教―ってなに?

イエス・キリストは神の子です。赤子としてこの世に来て、聖霊の力によって処女から産まれました。イエス様は私たちと同じように悪魔から色々な方法で誘惑を受けましたが、決して罪を犯しませんでした。イエス様は善行をし、沢山の人の病気を癒しました。イエス様は天の父の愛と救いについて教えられました。この地に来られた目的は、この世のすべての罪の為の犠牲としてご自身を捧げるためでした。罪と自己中心に対して説かれ、宗教的指導者たちはイエス様に腹を立て、政府の権威者に引き渡し、その者によりイエス様は十字架に掛けられました。イエス様が十字架の上で死なれてから、弟子たちはその遺体を墓の中に入れました。そして三日後、神様の力により、イエス様は死から蘇られたのです。イエス様は従う者たちにどのように神の御国を建て上げるか教えられた後に、天にお戻りになられました。

聖霊なる神

聖霊様は神格の第三の位格です。聖霊様は人に神の御心を表し、偶像礼拝や罪深い行いをする人を咎めて下さいます。自分の罪の償いとしてイエス・キリストの犠牲を受け入れるように招いてくださいます。主イエス・キリストを信じる者に、神様は聖霊様を授けてくださいます。人生すべての困難においてカウンセラーであり、すべての苦難において慰めです。人の不義を咎め、全ての真理に導いて下さいます。

聖書

聖書は神様の言葉であり、神様から人へのメッセージです。人の手による本ではなく、古の聖なる人が聖霊様の霊感により書いたものです。聖書にはこの世と人の創造を記録してあり、私達みなが罪を犯し、その罪により神様と離れたことを教えてくれます。罪の束縛から誰でも自由になることが出来る贖いの道を教えてくれます。聖書はどのように敬虔な人生を生き、永遠に備えるかを教えてくれます。

クリスチャンライフを生きる

クリスチャンになるには私たちの罪深さに気づかなければいけません。自分の罪を告白し、主イエス・キリストを救い主として受け入れなければなりません。神様に人生を捧げると、神様は聖霊で私たちを満たしてくれます。聖霊の力が内に宿り人を愛し許すことが出来ます。クリスチャンは心を聖く保ち、正直で誠実であろうと励みます。私たちが失敗した時は、聖書はこのように約束しています。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)。

死後の世界

聖書は魂の二つの永遠の運命、天国と地獄について教えています。私たちが死ぬとき、魂は神様の最後の審判を待つために肉体を離れます。救われた人は審判の時に天国へ招かれます。神様を拒絶した人は皆地獄へと送られます。そこはサタンとその使いのために造られた燃え盛る炎の底なしの穴です。進んで罪の中で生きてなくても、イエス様の声に従わなかった人は誰でも、希望なく永遠に焼き尽くされるのです。

天国は神様が住まわれる場所です。神様が造られた、完全な平和と安らぎのもっとも美しい場所です。天国ではもう悲しみも痛みも、飢えも乾きもありません。罪を捨てイエス様を救い主として受け入れた全ての人の家です。そこでは救われた人が永遠に神様を誉め歌うのです。

お問い合わせ

小冊子を注文する

恐れからの解放

Free From Fear

恐れとは何でしょう?

神様への恐れ

将来への恐れ

失敗への恐れ

苦しみへの恐れ

死への恐れ

恐れとは何なのでしょうか?

恐れとは隠れた敵であり、すべての年齢、人種の、人生のあらゆる歩みを侵します。思考を毒し、心の平安を奪い、生きるための熱意を押しつぶします。恐れは苛立たせ、不安にし、恐れさせ、かき乱し、臆病にさせます。

私達は対立や変化、失敗、ストレスを恐れます。病気や苦しみを恐れる人もいます。愛している人から傷つけられる事を恐れている人もいます。他の人やその意見を恐れている人もいます。闇を恐れ、一人きりでいる事を恐れています。多くの人が死に知らない政界に直面することを恐れます。救いが約束されたものではないと恐れ、神様は罪を赦して下さらないと恐れるクリスチャンもいます。彼らは死ぬのを恐れるだけでなく、生きる事も恐れているのです。

恐れは私達の心にゆっくりと静かに入り込むのでその被害者になっている事にもほとんど気づきません。コップ一杯の水に一滴垂らしたような小さな恐れでさえ、すべての色を変えてしまうのです。この恐れの細い流れが止まらないと、他の考えに導く流れに横入りします。

全文を読む: 恐れからの解放

人生は複雑で、世界は暴力的ですが外側の問題で内側の平安を台無しにする必要はないのです。向き合わなければならない範囲の恐れしかありません。一番大切な必要がまだ満たされていないければそこに恐れが入りこみます。私達の魂は神様の似姿で作られ、神様を大いに必要としているのです。神様から離れている時、恐怖、コンプレックス、恐れが来るのは目に見えています。

サタンは私達の恐れを最大限に利用してきます。あらゆる機会でサタンは恐れを強め、より真実で論理的であるかのように見せます。救いの望みが全てなくなるまで、道はだんだん暗くなり、心は重く、重くなっていきます。

サタンは闇のなかで働きます。サタンは光の中では働けないのです、なぜなら「神様は光であって、神様のうちには暗いところが少しもない。」(第1ヨハネ 1:5)からです。サタンは私達の弱さを知っていて、そこに思考と恐れをもたらします。サタンは真理を破壊し、欺瞞で私達を混乱させようと目論んでいます。もし、私達が心と思いの闇でこれを覆い続けるなら、サタンは落胆や恐れの所業を続けるでしょう。しかし、サタンは打ち破ることができ、光に照らせば追い出すことが出来ます。

神への恐れ

罪は、自分の人生を神様は喜んでいないのでは、という意識からくる、抵抗できない恐れを引き起こします。サタンの提案に屈し、園の中にある木の実を食べてはならないという神様の命令にアダムとイブが背いた日はまさに悲劇でした。不従順を通して、彼らは罪を負い、神様の臨在から隠れたのです。その夜、神様は彼らを呼び、アダムは言いました。「私は庭で汝の声を聞いた、そして恐れた(創世記 3:10)アダムの世代を通して、全人類が罪の影に覆われました。もし、この神様の審判の恐れが罪から立ち返るために人を動かすなら、人生のなかでポジティブな強制力となり得ます。「主への恐れは知恵の始まりである。(詩篇 111:10)これは人がもつ適切な尊敬と畏怖です。私達は神様の偉大さ、義、審判、愛、恵み、知恵、永劫の一部を見ます。神様は全知、全能で常に臨在されます。私達の存在こそがすべて神様の手の中にあり、神様の創造物として神様の前にあるのです。その神様を怒らせることを恐れています。神様の義は罪の中で生きる人を地獄の火の判決を下すと知っています。「もし、私達が真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人達を焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」(へブル10:26-27) この知識は罪への恐れをもたらします。神様への立ち返り、赦し、従順、奉仕を通して個人的な友としての神様を知っていくうちに、敬虔な畏れ、愛、言葉で言い表せない救いの贈り物が神様に仕える動機となります。「愛には恐れがありません、全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。(第1ヨハネ4:18)」私達の神様への畏れは心に襲いかかる恐怖ではなく、神様への愛を深めるものです。人生に完全に適用する時、すべてを乗り越えることができる恐れです。なぜ、それなら多くの人が恐れの雲に心をつかまれ、心をざわつかせ、人生の道に陰を落とすのでしょうか?神様の道は平安と信頼です。

あるところに暗い夜に1人きりで歩くのが怖い少年がいました、しかしお父さんが彼の隣を歩き、手をつないでくれるとすべての恐れが消えました。今ではその暗さに恐れはありません、彼はお父さんを愛し、信じていて、お父さんが守ってくれる事を知っているからです。恐れから解放されるカギはこれです:天国のお父さんをよく知るために学ぶことです。神様を知るようになると、神様の手に手を重ね、神様を完全に信頼することが出来ます。心を悩ます問題、絶望に導く人生の悲しみをつつましく神様に話します。

イエス様がガリラヤ湖の荒波の上を使徒ペテロに命じた例があります。ペテロは神様から目をそらすまで恐れていませんでしたが、恐ろしい波を見始めて、ペテロは沈み始めました。(マタイ 14:24-31)恐れからの解放を求め、神様に信頼を置く時、聖霊様がとても小さな声で私達に語りかけます。恐れよりも神様を見る時、その嵐は穏やかになるのです。そうすると神様は私達のややこしい問題に答え、疑いを確信に変え、慰めるように手を取ってくれるのです。神様の好意により、大きなダメージを与える恐れの影響を克服する事ができるのです。

将来の恐れ

謎につつまれた未知の将来は人を不安にさせます。毎朝、予測不能の一日に目覚め、想像上の恐怖の闇の道を駆け抜けながら、しつこく苦しめる“もしも”に直面するのです。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神様に知っていただきなさい。(ピリピ4:6)」神様の手に置いて将来を信じる事で、神様に未知の心配を任せる事ができます。やってみて下さい。

人生の導きが足りない事でたくさんの人が将来を恐れています。どこに行くかを知らないために、良くない事が起こる予感があるのです。神様は次に何が待ち受けているかを知っていて、神様に導いてもらう時、目的のない旅ではなく、むしろ家に戻る旅になるのです。

神様は未知の未来に直面したとしても、神様を信じる者には誠実であることを約束しました。あなたはそれを信じますか?この嵐、夜の闇、山の高さが厳しくても、神様があなたを通り抜けさせてくれるでしょう。

失敗の恐れ

私達は成し遂げたいと思っていながら、自分が、家族が、人生自体が失敗だと恐れています。間違った選択をし、間違った計画を行う事を恐れています。

神様はヨシュアに命じました。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)私達の人生をマスターの指揮の元に置けば、過去の失敗は失敗のままである必要はなく、成功のための踏み石となるのです。

苦しみの恐れ

肉体の苦しみ、批判の痛み、孤独や悲しみの痛みを考えると畏縮します。神様はすべての苦しみから私達を守ってくれませんが、神様はその苦しみに耐える好意を与えてくれます。困難の中に平安と確信を約束しました。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。」(詩篇46:1-2)もし、主を愛するなら、主は苦しみを益としてくれます。苦しみは神様の臨在と力を確認する機会を与えてくれます。

死の恐れ

死の恐れは人類にとって非常に共通しています。さよならを言う事はとても痛みを伴う課題です。

昔からある疑問に向き合う必要があります。「人が死ぬと、生き返るでしょうか。」(ヨブ14:14) イエス様は死の恐怖から私たちを解放する為に来ました。(ヘブル2:14-15)そのためにイエス様は死んで、蘇り、だからイエス様は「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」(ヨハネの福音書14:19)と約束されたのです。イエス様と共にいて、死は無へのドアではなく、新しいいのちへの輝くゲートウェイです。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。わたしが行ってあながたに場所を備えます。(ヨハネ14:1-2)」備えられた人のための、備えられた場所になるでしょう。

あなたは準備が出来ていますか?罪の生活を悔い改めましたか。悔い改めは過去の罪への自責の念をもたらし、古い生活を拒否します。祈りで主のもとに来て、気がかり、心配、恐れを主にあずけたのはいつが最後ですか?神様は言います。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ 11:28)なんという招きでしょう。なんという約束でしょう。

信念、祈り、希望に満ちて『来なさい』、そうすれば心に平安を抱くでしょう。

『来なさい』そうすれば、落ち着いた生活の穏やかな喜びを知るでしょう。神様はイエスキリストを信じ、あなたを自由に、恐れから自由にしようと招いています。『来なさい!』

お問い合わせ

小冊子を注文する

神様の素晴らしき救いの計画

Salvation

世の光

聖書は神様の言葉であり、永遠の真理です。そこには天地創造、人の神様に対する反抗、そして罪により人に降りかかった苦痛に関する記述があります。そして人を贖うための計画を通して神様の愛を知ることもできます。産まれ、人の罪の為に死に、また人の救いの為に死から蘇った救い主についても書かれています。このメッセージを信じる人は誰でも罪の救い、安らぎ、罪に対する力、そして永遠の命という生きた希望を経験します。

神様の素晴らしい創造物

世界を創造した神様はいつも存在しています。神様はどこにでもいて、全知全能です。神様の偉大な力により万物は造られました。神様はこの地を作り水で覆い、「かわいた所が現れよ。」と言い、そのようになりました。山と谷を造られ、草や美しい花々、ありとあらゆる木々で覆いました。様々な鳴き声の鳥を造りました。神様は大地や森に住む動物を大きなものから小さなもの、そして小さな虫や地に住む爬虫類までも造られました。湖と海とそこに生息するすべての生き物を造られました。全ての人種が住む大陸を造られました。光と温かさのために太陽を造られ、夜を照らすために月を造られました。何千もの写しく光る星々を空に散りばめました。最後に、神様は地の塵から人を形造り、その鼻に命の息吹を吹き込まれた。そして人は生きものとなった。神様はその人をアダムと呼びました。

神様はアダムに助け手が必要であることを見て、深い眠りにつかせました。そして神様はアダムのあばら骨を取って女性を造られました。アダムはエバを愛し、エバもまたアダムを愛しました。お互いに美しい関係がありました。これが、神様が家族に持っている計画です。

全文を読む: 神様の素晴らしき救いの計画

神様は全てを6日で造られ、7日目で休まれました。神様は造られたすべてを見て、非常に良かった。だから、神様は7日目を祝福し聖いものとして、人が休む日とされました。

聖書には堕天使サタン、もしくは悪魔の事についても書かれています。サタンは天国から追い出され、悪の根源です。サタンによって悲しみ、苦しみ、病と死がこの世に来ました。

罪の始まりの悲劇

神様はアダムとエバを愛されました。彼らが住むために、エデンの園と呼ばれる美しい園を造られました。アダムがその世話をしました。この園には彼らが食べるための様々な野菜や果物がありました。そこには善悪の知識の木と呼ばれる木がありました。神様はアダムにその木からは取って食べてはならない、それを取って食べたら必ず死ぬ、と言われました。ある日サタンはエバのところに来て嘘を言いました。サタンは「あなたがたは決して死にません。あなたがたは神のようになり、善悪を知るようになる」(創世記3:4-5)と言ったのです。

エバがその美しい木の実を見ると、いかにも食べるのに良く、食べたら賢くなりそうだった。彼女はその実を取って食べ、アダムにも与え、二人ともその実を食べました。すぐに二人は心に罪悪感に苛まれました。今まで感じたことがないもので、何かとても間違ったことをしてしまったと分かり、自分たちの不従順を思って二人とも恥ずかしくなりました。神様に合う事を考えると心に恐れが生じました。それで二人は園の木の中に隠れました。

そよ風の吹くころ、神様は「あなたはどこにいるのか?」と言ってアダムを呼びました。神様から隠れることはできず、神様の前に出て自分たちの過ちを認めました。神様によって二人は神様の戒めに逆らう事がどれほど大きな罪なのか理解しました。神様はその不従順の為に罰を受けなければならないといいました。これから人生の中で痛みと苦しみを味わわなければならず、生きるために働かなければならない。身体は衰え、疲れを感じ、死んで土にかえります。

二人が美しい園を追い出された後、神様は命の木から食べないようにケルビムと炎の剣を置きました。彼らは罪の結果とそれによってもたらされる大きな悲しみを理解し始めました。

罪の悲しい結果

アダムとエバは神様に逆らった罪を非常に悔いました。彼らの罪にも関わらず、神様はなお彼らを愛して、人類の救いの為の贖い主を送る事を約束されました。

アダムとエバの最初の息子二人はカインとアベルでした。ある日、二人は主の下に捧げものを持ってきました。カインは自分が作った食べ物を持ってきて、アベルは群れの中から羊を選んでその血を流し犠牲として持ってきた。アベルの犠牲を神様は喜び、カインの捧げものには喜ばなかった。

カインは神様がアベルの捧げものを喜んだことに気づいたとき、心にアベルへの嫉妬と憎しみが心に入ってきました。そしてある日二人で野を歩いている時、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺しました。神様はカインに「あなたの弟のアベルはどこですか?」と聞きました。カインは本当の事を言わずに「知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」(創世記4:9)と言いました。カインは主の言う事に従いませんでした。神様はカインがアベルを殺す前に、正しく行えば受け入れられる、と忠告してました。態度を改めて弟を愛していたら

神は実にその一人子をお与えになったほどにこの世を愛された

「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ2:11)

アベルの死にカインが家を出た後、アダムとエバはもう一人息子を産みました。その子の名はセツと言いました。神様はセツの子孫を祝福されました。いつの日か彼らを救ってくれる救い主の素晴らしい約束を聞いて信じました。特にアブラハムは神様を信じたので神の友と呼ばれました。アブラハムはその子孫から全治の家族が祝福されると言われました。

何百年も後に神様はこの世に救い主を送るという約束を果たしました。それはユダヤのベツレヘムという小さな町で、奇跡的な方法で起こりました。馬小屋で処女のマリヤに赤ん坊が産まれました(ルカ2:1-7)。天使が赤ん坊をイエス(救い主という意味)の名をつけなさいとマリヤに言いました。その子は神様について多くの事を人に教える偉大な教師になると伝えました。イエス様は他の子どもと同じように育ちました。12歳の時にはエルサレムほとんどの医者や弁護士よりも神様の言葉を理解していました。全ての律法や預言について知っているようで、イエス様が答えられない質問をすることは誰にもできませんでした。

イエス様は人々の必要に大変関心を持っていました。13歳の時に、会堂で教え始められました。ある日、メシヤが来ることに関する旧約聖書の預言を読まれました。読み終わって人々に「この聖句はあなた方が耳にしたこの日に成就した。」(ルカ4:21)と言いました。人に権威を持って教えられました。天国は近づいて、天国に入るには悔い改める必要がある事を説きました。謙遜と誠実をもって神様を礼拝するように教えられました。高慢な者と不信仰な者の罪を咎め、貧しい者と困窮している者に福音の愛を説きました。

イエスが与える永遠の命

イエス様は「私はよみがえりです。命です。私を信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)と言われました。

イエス様は神様が救い主を送ると約束された人々の為に多くの奇跡を行い、満たされました。病気の人を癒し、目の見えない人の目を開き、耳の聞こえない人の耳を開き、悪霊を追い出し、死んだ人生き返らせました。水の上を歩き、言葉で嵐の海を鎮められました。無花果の木に語り、次の日にその木は根元から枯れていました。5つのパンと二匹の魚で5千人以上の人の空腹を満たしました。みんなが満腹しただけでなく、12かご分も食べ物が残りました。イエス様の言うとおりに漁師が網を下ろすと大量の魚が獲れました。ある日は、イエス様の評判を聞いた10人のらい病人がやってきて、「主よ、私たちを憐れんでください。」叫び求め、イエス様の言葉により皆癒されました。

町にいる時も、移動の道中でも、毎日大群衆がイエス様の後についてきて、人々はイエス様の恵み深い言葉と、やさしさ、憐みと奇跡の業によって祝福されました。

イエス様はご自身は神の子であり、神様は自分の父親である事を伝え始めました。その言葉を信じたものは皆祝福され、信じる者は神の子であると伝えました。

イエス様は「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:2-3)と弟子に言われました。この天国の場所は全ての真のクリスチャンのためにあります。

「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」(マタイ25:34)

イエス様は私たちの罪の為に死なれた

「「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエス…を十字架につけた。」(ルカ23:33)

律法学者とパリサイ人はイエス様とその教えにとても腹立ちました。イエス様は良く彼らの名誉を求めたり、律法に反するお金稼ぎを非難しました。沢山の人が信じ、従い、称賛したので、彼らはイエス様を非常に妬み、羨みました。人々がイエス様を王にするのではないかと恐れました。

彼らは人の信用を失うようなことをイエス様に言わせようとしましたが、イエス様は賢すぎました。イエス様が有名になればなるほど、彼らの怒りと憎しみは大きくなり、ついにはイエス様を殺す計画を立てました。

イエス様を法廷に連れて行き、神の名を汚す悪人として告発しました。多くの冤罪を課し、ユダヤ地方のローマ提督であったポンテオ・ピラトの下へ連れて行きました。ピラトはイエス様になにも罪が見当たらないので、イエス様を解放することにしましたが、イエス様の告発者達は暴徒と化し「十字架に掛けろ、十字架に掛けろ」と叫び始めました。ピラトは群集の怒号と脅迫を聞くと、要求にこたえてイエス様を彼らに引き渡しました。彼らはイエス様を引き取り、いばらの冠を頭につけ、嘲笑して王と呼びました。顔に唾をかけて残酷に痛めつけました。最後に十字架にくぎ付けにして、死ぬまでそこに残しました。

イエス様は、何百年も前にアベルが祭壇に捧げた子羊のように潔白のまま殺されました。アベルはこの世の罪の為に死ぬ神の子羊の象徴として子羊を捧げなければなりませんでした。昔の預言者たちもイエス様の苦しみと死を預言していました。バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と言いました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)。

イエス様は私たちを解放する為に死からよみがえられた

「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」(28:6)

イエス様が死んで埋葬されてから三日後、週の初めの日に何人かの女性がイエス様の身体に油を塗りに墓に来ました。非常に朝早くだったので墓が空っぽだったことに驚きました。イエス様の身体はそこになかったのです。心が乱されましたが、突然輝く衣をまとった二人の天使が現れ「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」と言いました。急いで戻って見て聞いたことを弟子たちに伝えに行きました。弟子たちは話を信じなかったので、ペテロとヨハネは自分で調べに行きました。彼らも空の墓を見て、中に入ると亜麻布の服ときれいに折り畳まれたイエス様の顔を覆っていた布を見つけました。これを見て彼らも女の人たちの話を信じました。同じ日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて部屋にこもっていました。すると突然イエス様が彼らの只中に現れて「平安があるように。」と言われ、ご自分の刺された手と脇腹を見せました。主を見ると弟子たちは喜び、十字架に掛けられたのと同じイエス様であり、死から蘇られたのだと信じました。この後、イエス様は多くの人に姿を現し、復活を完全に証明しました。

イエス様が死から蘇った朝は今でも歴史上もっとも栄光に満ちた日です。今日、神様の素晴らしい救いの計画は完成されました。イエス様の死と復活を信じる信仰を通して、この救いの計画は人の心と人生に違いをもたらします。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント5:17)。イエス様を心に受け入れ、生涯従順に従う者は誰でも復活し、天国で永遠に生きるのです。イエス様は「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」(ヨハネ14:19)。

このメッセージはあなたの心に響きますか?あなたはどう応えますか?悔い改めて福音を信じますか?「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)急いで。今日、イエス様の下に来てください

お問い合わせ

小冊子を注文する